苦手なことは訳せない

翻訳するから意味が通じるのではなく、意味が通じるから翻訳できる。

「説明責任」とは「説明する責任」ではない

説明責任とはaccountability の日本語訳ですが、それを 「説明する責任」と理解しては、英語でaccountabilityと言った場合の意味は、十分には伝わっていません。

たしかに"to account for"という動詞は「説明する」という意味です。しかし、この言葉は統治・行政という文脈では、「自らの行動の説明を求められる」というオリジナルの意味から大きく拡大されて使われています。

Wikipedia のaccountability のページ(https://en.wikipedia.org/wiki/Accountability)の説明にそって解説すると次の通りです。

AがBに対して "accountable" であるということは、AはBに対して自分の行動や決断を説明、正当化し、また不正行為を働いた場合は、処罰を受け入れる義務を負う、ということです。

つまりは、「説明責任を果たす」ということは、与えられた権限を行使し自らの役割を果たし、もし任務に失敗したり、何か不正を働いた場合は、その責任を負う。最終的には出所進退を申し出て、裁きを待つ。もちろん、その不正や失敗の経緯を明らかにするいう意味合いもありますが、より大事なのは、その責任の所在が自らにあることを認め、制裁を受け入れるということです。

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか。