苦手なことは訳せない

翻訳するから意味が通じるのではなく、意味が通じるから翻訳できる。

「部分」の対義語は「一般」か? ― 最低賃金1500円の影響

現行の最低賃金では生活が成り立たないので1500円に上げてほしい、と主張する人にたいし、「そんな事をしたら、賃金が上がるどころか仕事がなくなり収入がゼロになる」、と脅しめいたことをいう人を見かけます。一見もっともに聞こえますが、事はそう単純ではありません。こういう短絡的な議論がはびこるのは、経済学者が"general"という言葉の翻訳を間違ったことが一因ではないかと私は考えています。

「価格」の変動によって需要と供給の調整がなされるという市場のメカニズムは広く理解されています。価格が上がれば需要が減り、価格が下がれば需要が増える。供給に関してはその逆になります。仮に需要に対して供給が大きい場合は、値段が下がり需要と供給の一致する点(均衡点)に落ち着くというのはわかりやすい話です。

しかし経済というのは、お金がぐるぐると循環してなりたっているので、一つの市場での価格を見るだけでは何が経済に起こっているか理解するには十分とは言えません。

思考上の実験として、天候に恵まれて野菜が豊作だったとします。そうすると供給は増えるわけですから、おそらく野菜の値段は下がります。

野菜を作る農家の立場から見ると、出荷量は増えましたが、値段は下がってしまいました。ですから、収入が増えるかどうか微妙なところですが、ここでは増えたと考えましょう。野菜農家は生産者であると同時に消費者でもあります。収入が増えたら、余裕ができた分、他の使い道にお金をまわせます。どこかに観光にいくかもしれませんし、もしくは農業用のトラクターなどに投資するかもしれません。

一方、野菜を買う消費者からしても、野菜の値段が下がると、その分家計に余裕ができます。浮いた予算で、高級な肉などを買うかもしれませんし、もしくは本など食品以外のものを買うかもしれません。

よって、野菜の豊作だった影響を受けるのは、単なる野菜の市場だけではなく、観光に関する市場、トラクターの市場、肉に市場、書籍と他の様々な市場での需要を増やし影響を及ぼします。そしてこれらの市場での生産者、例えばトラクターの製造会社の業績に好影響を及ぼし、それはその会社は雇用を増やす…などと考えれば、野菜という一市場で起きたことは、経済全体の全ての市場に影響を及ぼすと考えられます。

経済の分析する際に、野菜市場、つまり一つだけの市場を見て考えることを英語では、partial equilibrium analysisといい、それに対比する形で多数の市場への影響をひっくるめて考慮する方法をgeneral equilibrium analysisといいます。

さて日本語訳ですが、partial equilibrium analysis は「部分均衡分析」と訳します。ではそれに対比される、general equilibrium analysis は何と訳されるでしょうか。partial つまり「部分」という言葉の対義語を充てればいいのですから、「全体」もしくは「全般」が妥当と思えますが、実際には「一般」という言葉に訳されてしまいました。

Partial (部分)に対する対義語で、全体的、全般的という意味で使われているgeneralなのに、special(特殊)に対する対義語の一般的という意味でのgeneralと勘違いしてしまったのですね。よって「一般均衡」という意味不明な和訳が使われ現在に至っています。

言葉が一見意味不明なせいか、経済政策の影響を考える際、一つの市場を切り離し考えるだけではなく、経済全体への影響を考えると必要があるという発想は、あまり理解されていないようです。

話を最低賃金に戻します。

最低賃金を1500円に上げるべきという主張に対し、経済通の方は次のように反論します。

最低賃金が上がったら、雇用が減る。ロボットの方が割安だから、仕事がどんどんロボットに取って代わられる。工場などの単純労働は真っ先にロボットに代わる。グロバール経済の激しい競争のなか、時給1500円になったら多くの企業がやっていけなくなり、廃業することになる。よって最低賃金を上げることは、低所得者の収入を上げるどころか、ゼロにする。」

これは妥当な議論でしょうか?

まず、雇用が減るという議論ですが、労働の価格(賃金)が上がれば、労働の需要(求人・雇用)が減るというのは、市場原理に則しているような感じがします。しかし、これは部分均衡的な考え方です。つまり、生産品の価格が一定ならそうなりますが、最低賃金の上昇に対応して生産品の価格を上げられるなら、そうはなりません。競争が激しければ、一社だけ値段をあげるのは難しいですが、法律で最低賃金を上げれば、条件は皆同じで、一社だけ不利になることはありません。

国内での競争は条件が同じだが、海外との競争に勝てないという反論はどうでしょうか。今日、就業者の80%以上はサービス部門で働いています。もちろんIT化などにより、サービス部門でも海外との競争する業種はありますが、ざっと考えて、建設、運輸、卸売・小売、金融・保険、不動産、宿泊、飲食、教育、医療、福祉といった産業は、海外との競争にはほぼ関係ありません。もちろん製造業も国内のサービスをインプットとして使っているわけですが、サービスの価格が上がった場合、海外と競争する製造業への影響はゼロだとは言えません。これはデータを検証しないと何とも言えませんが、「最低賃金を上げた為、サービスの値段が上がり、それによって製造業の競争力が落ちる」というようなことは、あまり可能性が大きいとは思えません。

では、ロボットが人間に取って代わるという可能性はどうでしょうか。まず、ロボットが簡単に取って代われるような単純労働を人間にやらせている時点で、その会社は終わっています。日本の製造業で、単純労働の賃金の安さで海外と競争しようなんて会社は先が長くはありません。暴論に聞こえるかもしれませんが、そういう会社には退陣してもらい、日本の産業構造の転換を促した方が良いと思います。サービス行の飲食店やコンビニでの仕事が簡単にロボットに取って代わられるかというと、いくらロボットの進歩が速いとはいえ、まだ先の事でしょう。

さらに考えるべきは、最低賃金を上げた際のマクロ経済への影響です。一般均衡分析は物価だとか景気だとか、マクロ的な分析には適していないのですが、「すべての市場への影響を考える」という観点から、大雑把に次のように考えることができます。最低賃金が上がったことに対応して、企業が生産品の価格を上げるとします。そうするとインフレ圧力が生じるとして、一昔前なら忌み嫌われるところです。しかし、デフレから脱却できず何年も苦しんでいいる今日、インフレ圧力が生じるなら、それは歓迎されるべきでしょう。また、最低賃金を上げることによって低所得層の収入が増え景気を刺激するという可能性は大きいと思います。

最低賃金を上げた場合の最終的な家計への影響は、低所得労働者に有利、高所得労働者や企業利益の恩恵をこうむる株主などには不利となるでしょう。しかし、格差の問題が指摘される今日、それはそんなに悪いことではないと思えます。

もちろん実際に最低賃金を上げた場合の影響は、上の議論のように可能性を語るだけでなく、統計を使い検証せねばなりません。しかし、最低賃金を上げれば、低所得者の職がなくなるというような議論は、経済の一面しか見ていないといえると思います。