苦手なことは訳せない

翻訳するから意味が通じるのではなく、意味が通じるから翻訳できる。

日本にはアイデンティティーがない

日本語は、英語のidentityを意味する言葉を全く持ち合わせていないと思います。明治以来、西洋から入ってきた様々な概念に対して、それらしき言葉を作ったり、当てはめたりして上手くやってきたと思うのですが、identity に関しては全く無理の様です。私はそれには仏教が関係しているのではないかと思っています。

 

変な薀蓄を披露するようで申し訳ないですが、identityには大雑把に二つ意味があります。

  1.  同じであること。同一性
  2. 自己意識の中で、その人(もしくは国・民族)をその人たらしめんとするもの。その人の本質、個性、特徴。

 上の①の「同じ」という意味は、もちろん日本語でも問題ありません。日本語に適当な訳がないのは二つ目の意味の方で、仕方がなく①の「同一性」という言葉で代用している様です。例えば、身体の性と心の性が一致しない疾患、Gender Identity Disorderは「性同一性障害」と訳されますが、「一致しないのに同一ってどういうこと?」とつっこみたくなる様な無茶苦茶な翻訳だと思います。

 

個人のアイデンティティーを「同一性」と訳すのは無理があるのですが、完全に的外れでもないのです。Identityの語源をラテン語にたどると、もともとは「同じ」という意味らしいです。「同じこと」→「時を通じて変わらないもの」→「その人の特質・本質」という様に意味が転じて、②の意味でのアイデンティティーという意味を持つ様になったということです。

 

そう考えると、アイデンティティーいう言葉は、諸行無常諸法無我という仏教の発想とは相容れづ、日本でこの言葉が上手く理解されないのは、やはり日本の文化は仏教に大きく影響されているからなのかな、と想像しています。