苦手なことは訳せない

翻訳するから意味が通じるのではなく、意味が通じるから翻訳できる。

日本国憲法前文を英文の構造通り翻訳する

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由 のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 
これは、日本国憲法の前文の最初の文ですが、読みづらいだけでなく、(元となった英文に近いと思われる)最終稿英訳と較べてもややおかしな構造になっています。直訳すれば良いというわけではないので、文が間違っているとは言えません。しかし、より原文に忠実な構造で訳せば、少しは読みやすくなると思われます。
 
まず、英語版ですが
 
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution. 
 
これを解説して、「 主語は "we, the Japanese people" で、述語となる動詞は四つある(determined, resolved, proclaim, establish)」などという人がいますが、それは違うと思います。日本語版を読めばそう解釈したくなるのも分かりますが、そうなると英語の構造上辻褄が合わなくなります。
 
もし4つの動詞があるなら
 
We did A, did B, do C and do D. 
 
と書くと思われますが、前文の構造は
 
We determined, and resolved, proclaim and establish
 
と一つ余計な "and" があり、この説明がつきません。
 
ですから、これは述語が四つ並んでいるのではなく、最初の二つは修飾語と考えるべきです。どの辞書でも確認できますが、"determined" と "resolved" という言葉は動詞の過去分詞だけではなく、 形容詞としても存在します。"determined" は「決然とした、断固とした、断固とした意志を表わした、固く決心したと」いう意味で、"resolved" も似た様な感じで「決心して、決意して、断固として」といった意味の形容詞です。
 
つまり "determined that we shall secure..." と "resolved that never again..." の部分は述語ではなく、主語である "We, the Japanese people" にかかる修飾語であると考えるべきです。この点を考慮して、この文の構造を英語版に忠実に組み替えるなら
 
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由 のもたらす恵沢を確保すると固く決心し、さらに、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意した我ら日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じ、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 
となります。これでいくらか読みやすくなったかと思いますが、この文にはまだ難点があります。
 
まず、「諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由 のもたらす恵沢を確保し」というギクシャクした表現があります。これは日本語としては不自然ですし、よく読むと意味が通じません。問題は
 
we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land
 
という句の "throughout this land" がどの句を修飾するか、そもそも何を意味するのかがはっきりしないということにあると思います。可能性は三つあると考えます。
 
①前文では、"throughout this land" は "liberty" を修飾すると解釈されているようですが、それならば
 
諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたる自由のもたらす恵沢を確保
 
とすべきでしょう。「わたって」では意味が通じません。
 
②読み方によっては、"throughout this land" は動詞の "secure" を修飾していると解釈できます。つまり
 
諸国民との協和による成果と、自由のもたらす恵沢をわが国全土に確保
 
と読めます。この方が日本語としては自然な気がします。しかし、英文では "the fruits of peaceful cooperation with all nations" という長い句と"the blessings of liberty" という短い句を並列させることになり、バランスが悪くなります。
 
③そもそも "this land" とは日本の国土のことなのでしょうか。直前にある「諸国民との協和 」"peaceful cooperation with all nations" というのは、必ずしも現実的な話ではなく、普遍的な理想を述べています。それに対して、「我が国全土にわたる自由」とは日本限定で、ずいぶんローカルな話です。こんなバランスの悪い文を意図して書くでしょうか。むしろ "liberty throughout this land" とは、「遍くこの地上に行き渡る自由」とか「世界中に広がった自由」という普遍的な意味があるのではないでしょうか。なにしろ前文の最初なので、ここまでの文脈からして、"this land" が日本の国土を指しているという必然性はありません。
 
英文からはどれが正しいとは言えませんが、私はこの③の解釈が一番いいように思えます。
 
もう一つ難点をあげると、 "never again shall we be visited with the horrors of war" いう句は、"never" と倒置法を使って強調しているのですから、「絶対に」という言葉を入れてもいいのではないでしょうか。さらに細かい点を挙げると
  • 「確保する」という言葉は、この文脈では不自然
  • 今日の用語では、「正当に選挙される」とは言わない
  • 憲法ならば、「確定」よりも「制定」と言った方がふさわしい
 
この様な観点から翻訳に修正を加えると
 
我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果とこの地に行き渡る自由の恵沢を確かなものにすると固く決心し、さらに、政府の行為による戦争の惨禍を絶対に再来させないと決意した我ら日本国民は、正当な選挙で選出された国会における代表者を通じ、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を制定する。
 
と、こんな感じになるのではないでしょうか。

「部分」の対義語は「一般」か? ― 最低賃金1500円の影響

現行の最低賃金では生活が成り立たないので1500円に上げてほしい、と主張する人にたいし、「そんな事をしたら、賃金が上がるどころか仕事がなくなり収入がゼロになる」、と脅しめいたことをいう人を見かけます。一見もっともに聞こえますが、事はそう単純ではありません。こういう短絡的な議論がはびこるのは、経済学者が"general"という言葉の翻訳を間違ったことが一因ではないかと私は考えています。

「価格」の変動によって需要と供給の調整がなされるという市場のメカニズムは広く理解されています。価格が上がれば需要が減り、価格が下がれば需要が増える。供給に関してはその逆になります。仮に需要に対して供給が大きい場合は、値段が下がり需要と供給の一致する点(均衡点)に落ち着くというのはわかりやすい話です。

しかし経済というのは、お金がぐるぐると循環してなりたっているので、一つの市場での価格を見るだけでは何が経済に起こっているか理解するには十分とは言えません。

思考上の実験として、天候に恵まれて野菜が豊作だったとします。そうすると供給は増えるわけですから、おそらく野菜の値段は下がります。

野菜を作る農家の立場から見ると、出荷量は増えましたが、値段は下がってしまいました。ですから、収入が増えるかどうか微妙なところですが、ここでは増えたと考えましょう。野菜農家は生産者であると同時に消費者でもあります。収入が増えたら、余裕ができた分、他の使い道にお金をまわせます。どこかに観光にいくかもしれませんし、もしくは農業用のトラクターなどに投資するかもしれません。

一方、野菜を買う消費者からしても、野菜の値段が下がると、その分家計に余裕ができます。浮いた予算で、高級な肉などを買うかもしれませんし、もしくは本など食品以外のものを買うかもしれません。

よって、野菜の豊作だった影響を受けるのは、単なる野菜の市場だけではなく、観光に関する市場、トラクターの市場、肉に市場、書籍と他の様々な市場での需要を増やし影響を及ぼします。そしてこれらの市場での生産者、例えばトラクターの製造会社の業績に好影響を及ぼし、それはその会社は雇用を増やす…などと考えれば、野菜という一市場で起きたことは、経済全体の全ての市場に影響を及ぼすと考えられます。

経済の分析する際に、野菜市場、つまり一つだけの市場を見て考えることを英語では、partial equilibrium analysisといい、それに対比する形で多数の市場への影響をひっくるめて考慮する方法をgeneral equilibrium analysisといいます。

さて日本語訳ですが、partial equilibrium analysis は「部分均衡分析」と訳します。ではそれに対比される、general equilibrium analysis は何と訳されるでしょうか。partial つまり「部分」という言葉の対義語を充てればいいのですから、「全体」もしくは「全般」が妥当と思えますが、実際には「一般」という言葉に訳されてしまいました。

Partial (部分)に対する対義語で、全体的、全般的という意味で使われているgeneralなのに、special(特殊)に対する対義語の一般的という意味でのgeneralと勘違いしてしまったのですね。よって「一般均衡」という意味不明な和訳が使われ現在に至っています。

言葉が一見意味不明なせいか、経済政策の影響を考える際、一つの市場を切り離し考えるだけではなく、経済全体への影響を考えると必要があるという発想は、あまり理解されていないようです。

話を最低賃金に戻します。

最低賃金を1500円に上げるべきという主張に対し、経済通の方は次のように反論します。

最低賃金が上がったら、雇用が減る。ロボットの方が割安だから、仕事がどんどんロボットに取って代わられる。工場などの単純労働は真っ先にロボットに代わる。グロバール経済の激しい競争のなか、時給1500円になったら多くの企業がやっていけなくなり、廃業することになる。よって最低賃金を上げることは、低所得者の収入を上げるどころか、ゼロにする。」

これは妥当な議論でしょうか?

まず、雇用が減るという議論ですが、労働の価格(賃金)が上がれば、労働の需要(求人・雇用)が減るというのは、市場原理に則しているような感じがします。しかし、これは部分均衡的な考え方です。つまり、生産品の価格が一定ならそうなりますが、最低賃金の上昇に対応して生産品の価格を上げられるなら、そうはなりません。競争が激しければ、一社だけ値段をあげるのは難しいですが、法律で最低賃金を上げれば、条件は皆同じで、一社だけ不利になることはありません。

国内での競争は条件が同じだが、海外との競争に勝てないという反論はどうでしょうか。今日、就業者の80%以上はサービス部門で働いています。もちろんIT化などにより、サービス部門でも海外との競争する業種はありますが、ざっと考えて、建設、運輸、卸売・小売、金融・保険、不動産、宿泊、飲食、教育、医療、福祉といった産業は、海外との競争にはほぼ関係ありません。もちろん製造業も国内のサービスをインプットとして使っているわけですが、サービスの価格が上がった場合、海外と競争する製造業への影響はゼロだとは言えません。これはデータを検証しないと何とも言えませんが、「最低賃金を上げた為、サービスの値段が上がり、それによって製造業の競争力が落ちる」というようなことは、あまり可能性が大きいとは思えません。

では、ロボットが人間に取って代わるという可能性はどうでしょうか。まず、ロボットが簡単に取って代われるような単純労働を人間にやらせている時点で、その会社は終わっています。日本の製造業で、単純労働の賃金の安さで海外と競争しようなんて会社は先が長くはありません。暴論に聞こえるかもしれませんが、そういう会社には退陣してもらい、日本の産業構造の転換を促した方が良いと思います。サービス行の飲食店やコンビニでの仕事が簡単にロボットに取って代わられるかというと、いくらロボットの進歩が速いとはいえ、まだ先の事でしょう。

さらに考えるべきは、最低賃金を上げた際のマクロ経済への影響です。一般均衡分析は物価だとか景気だとか、マクロ的な分析には適していないのですが、「すべての市場への影響を考える」という観点から、大雑把に次のように考えることができます。最低賃金が上がったことに対応して、企業が生産品の価格を上げるとします。そうするとインフレ圧力が生じるとして、一昔前なら忌み嫌われるところです。しかし、デフレから脱却できず何年も苦しんでいいる今日、インフレ圧力が生じるなら、それは歓迎されるべきでしょう。また、最低賃金を上げることによって低所得層の収入が増え景気を刺激するという可能性は大きいと思います。

最低賃金を上げた場合の最終的な家計への影響は、低所得労働者に有利、高所得労働者や企業利益の恩恵をこうむる株主などには不利となるでしょう。しかし、格差の問題が指摘される今日、それはそんなに悪いことではないと思えます。

もちろん実際に最低賃金を上げた場合の影響は、上の議論のように可能性を語るだけでなく、統計を使い検証せねばなりません。しかし、最低賃金を上げれば、低所得者の職がなくなるというような議論は、経済の一面しか見ていないといえると思います。

「説明責任」とは「説明する責任」ではない

説明責任とはaccountability の日本語訳ですが、それを 「説明する責任」と理解しては、英語でaccountabilityと言った場合の意味は、十分には伝わっていません。

たしかに"to account for"という動詞は「説明する」という意味です。しかし、この言葉は統治・行政という文脈では、「自らの行動の説明を求められる」というオリジナルの意味から大きく拡大されて使われています。

Wikipedia のaccountability のページ(https://en.wikipedia.org/wiki/Accountability)の説明にそって解説すると次の通りです。

AがBに対して "accountable" であるということは、AはBに対して自分の行動や決断を説明、正当化し、また不正行為を働いた場合は、処罰を受け入れる義務を負う、ということです。

つまりは、「説明責任を果たす」ということは、与えられた権限を行使し自らの役割を果たし、もし任務に失敗したり、何か不正を働いた場合は、その責任を負う。最終的には出所進退を申し出て、裁きを待つ。もちろん、その不正や失敗の経緯を明らかにするいう意味合いもありますが、より大事なのは、その責任の所在が自らにあることを認め、制裁を受け入れるということです。

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか。

日本人の国籍は「日本」ではない

当然ですが、どの国のパスポートにも、その所持人の国籍が書いてあります。日本の場合は

 

国籍/Nationality

JAPAN

 

と表記してあります。これは英語としては奇妙な書き方で、普通はJapaneseと形容詞で書くべきもののようです。英語が公用語かそれに近い国々のパスポートをみると、国籍はほとんどの場合、形容詞で表記されています。例を取ると

 

オーストラリア Australian

カナダ Canadian

アイルランド Irish

ケニア Kenyan

ニュージーランド New Zealand

南アフリカ South African

英国 British Citizen

米国 United States of America

 

ちなみにフランスのパスポートでも国籍はFrançaiseと形容詞で表記されています。

ニュージーランドは国籍を名詞で書いてあるように見えますが、そうではありません。New Zealandの形容詞は、New Zealandと国名をそのまま使います。例えば、「ニュージーランドラグビー」は、New Zealand rugbyとなるので、国籍のNew Zealandも形容詞と考えるのが自然です。米国の場合はというと、米国の形容詞には、United Statesもしくは省略してU.S.が使われます。ただ、さすがに国籍を「合衆国」と書くわけにはいかなかったのでしょう。Americanでは、文脈によっては南北アメリカ大陸の全ての国民をAmericanと言えるので、これも都合がよくありません。そこで国名を国籍として表記してあると考えられます。また、滅多にこのような使い方はしませんが、New Zealandという言葉が形容詞として使われるように、United States of Americaという句を形容詞として使っても間違いではありません。

 

日本の場合はJapaneseという形容詞を普通に使えるので、国籍をJapanと書くのは不自然です。本質を理解せず、ただ米国の真似をすればいいと思い、国名を国籍欄に書いているのでしょうか。

 

この不自然さは、英語もろくすっぽできないのに対米追随だけはしっかりやる日本の象徴だ、と悪口を言いたくもなりますが、おそらくはこれは単なる外務省の官僚主義の結果だと思います。外務省の若い職員は、これがおかしな国籍の書き方であることに気づいている筈です。しかし、組織の上のほうにいる老人は、自分の世代の間違いを認めたがらない。そのためいつまでもこの不自然な書き方が続く、ということではないでしょうか。

日本にはアイデンティティーがない

日本語は、英語のidentityを意味する言葉を全く持ち合わせていないと思います。明治以来、西洋から入ってきた様々な概念に対して、それらしき言葉を作ったり、当てはめたりして上手くやってきたと思うのですが、identity に関しては全く無理の様です。私はそれには仏教が関係しているのではないかと思っています。

 

変な薀蓄を披露するようで申し訳ないですが、identityには大雑把に二つ意味があります。

  1.  同じであること。同一性
  2. 自己意識の中で、その人(もしくは国・民族)をその人たらしめんとするもの。その人の本質、個性、特徴。

 上の①の「同じ」という意味は、もちろん日本語でも問題ありません。日本語に適当な訳がないのは二つ目の意味の方で、仕方がなく①の「同一性」という言葉で代用している様です。例えば、身体の性と心の性が一致しない疾患、Gender Identity Disorderは「性同一性障害」と訳されますが、「一致しないのに同一ってどういうこと?」とつっこみたくなる様な無茶苦茶な翻訳だと思います。

 

個人のアイデンティティーを「同一性」と訳すのは無理があるのですが、完全に的外れでもないのです。Identityの語源をラテン語にたどると、もともとは「同じ」という意味らしいです。「同じこと」→「時を通じて変わらないもの」→「その人の特質・本質」という様に意味が転じて、②の意味でのアイデンティティーという意味を持つ様になったということです。

 

そう考えると、アイデンティティーいう言葉は、諸行無常諸法無我という仏教の発想とは相容れづ、日本でこの言葉が上手く理解されないのは、やはり日本の文化は仏教に大きく影響されているからなのかな、と想像しています。